苗場スキー場と慈恵医大山岳部
日本のスキーの発祥は、110年前の明治44年(1911)、新潟県高田の金谷山においてオーストリア=ハンガリー帝国の軍人テオドール・フォン・レルヒが高田歩兵第58連隊に対して行った本格的なスキー指導です。このスキー発祥からわずか20年後の昭和6年(1931)、慈恵医大山岳部ではスキー小舎(ヒュッテ)を建てようという声が上がっていました。部員たちは、開通直前の上越清水トンネルの中を歩いて水上から越後湯沢に向かい、湯沢町の有力者の協力を得て、苗場山にヒュッテを建てること決めました。苗場山中腹の標高1500m付近の県有地を借り受け、当時越後湯沢で小学校を建設していた大工の和田喜太郎にヒュッテの建設を依頼したのです。部員は先輩たちから寄付金を集めたり、映画会を開催したりして建設資金を集めます。そしてついに昭和6年11月1日に「慈恵苗場ヒュッテ」を開舎し、12月20日には第1回スキー合宿を行ったのでした。
当時、ヒュッテまでは越後湯沢から三俣を経て徒歩で丸1日かかりましたが、スキー合宿は頻繁に行われ、多い時には40人もの参加者がいました。雪の降り積もるヒュッテには管理人が必要でしたので、ヒュッテを建設した和田喜太郎に管理人になってもらいました。当時の地図には「慈恵苗場ヒュッテ」が表記され、苗場山にヒュッテができたことで、それまでほとんどなかった登山客、スキーヤーが次第に増えていったのです。そのため慈恵苗場ヒュッテは部員以外にも利用されていました。昭和13年(1938)、和田喜太郎は山岳部の許可を得て、隣にもう一つのヒュッテ「和田苗場ヒュッテ」を建設し、2つのヒュッテを渡り廊下で繋ぎ管理しました。
時を同じくして満州事変が勃発し、第二次世界大戦が始まり、部員のほとんどが戦地に向かい、金銭的にもヒュッテの維持が困難になりました。慈恵苗場ヒュッテは老朽化し、和田苗場ヒュッテのみが維持されることになります。終戦後の山岳部の合宿では部員たちは和田苗場ヒュッテを利用しました。後に西武鉄道が苗場山に眼をつけ、苗場山が変わっていく中でも和田喜太郎は「今日のように苗場山を開いたのは慈恵医大の山岳部だ」とよく話していたそうです。
スキー場としての苗場の地に注目した西武鉄道は、昭和36年(1961)筍山に苗場国際スキー場(現在の苗場スキー場)をオープンします。その年に和田喜太郎は和田苗場ヒュッテの営業権を西武鉄道に売却します。昭和45年(1970)に苗場山の麓にみつまたスキー場がオーブン、昭和52年(1977)には、みつまたスキー場の山側にかぐらスキー場がオープンします。かぐらスキー場のコース整備のために老朽化した和田小屋(和田苗場ヒュッテ)は取り壊されましたが、その200メートル山側に新しい和田小屋が建設されました。慈恵苗場ヒュッテに起源する新しい和田小屋は、現在はプリンスホテルが経営する山小屋として、90年たった今も苗場山の登山客やかぐらスキー場のスキーヤーに親しまれ、食事と宿を提供しています。
(トップ写真:左が慈恵苗場ヒュッテ、右が和田苗場ヒュッテ(旧和田小屋)。場所は、現在のかぐらゴンドラ山頂駅の麓側付近)
(写真:慈恵苗場ヒュッテの入口に立つ和田喜太郎氏。看板に「苗場慈恵醫大ヒュッテ管理人 和田喜太郎」と記されている)
(解剖学講座 教授 岡部正隆、あるいは、和田小屋に入り浸るスキー指導員資格を持つ解剖学者)