今まで受けてきた中で一番印象に残った講義

4年生以降になると、講義は臨床系に切り替わります。各臨床科の教授陣を始めとした講師たちが、その科について臨床的な観点から学生に知っておいてほしいことを伝えて下さいます。特に各科の教授の先生方の講義は、その科の面白さや先生方の来歴を伝えてくださる興味深いものですが、その中でも最も印象に残った講義は外科学講座統括責任者の大木隆生先生の講義でした。

大木先生は慈恵医大を卒業され、最初に入局したのは同大の整形外科でした。「手術は教授になってから覚えろ。それまでは基礎研究」と言われたため、その後も紆余曲折を経て第一外科血管外科に入局されました。結果的には性に合っていたのだろう、同大および関連病院で研さんし、論文数も増え、実績を重ねるにつれ、「給与と充実度」がともにアップされたとのことでした。

しかし先生が専門とした心血管系の手術症例は、日本よりも米国の方が圧倒的に多いことは明らかです。そこで臨床の腕を磨くために、お父様の仕事の関係で身につけた英語力を武器に米国へ渡られました。しかし、そこで待っていたのは、手術見学の日々。無給で、研究費などもありませんでした。しかも、留学目的であるステントグラフト手術は、死亡例が続いたことから中止していた。

そんな追い詰められた大木先生は、幼少期の楽しみであった釣りの中における工夫を凝らしていた経験から、工夫を模索していらっしゃいました。その後、米国の医師達が術後に捨てていたプラークを研究室に持ち帰って実験を繰り返した結果、新たなステントグラフトの開発を行ったのです。ステントグラフトの開発などによって、不可能を可能にし続けてきたことによって、名門大学でありますアルバートアインシュタイン医科大学モンテフィオーレ病院の外科部長まで上り詰められます。

しかし、そのスポットライトを当てられ続けるなかでも、先生はどこか物足りなさを覚えるようになっていきます。そんな折に慈恵医大から来た外科部長へのオファーによって、一肌脱ぐことに決められたのです。

大木先生が喜びを覚えることは、先生の生涯の中で変遷していきました。高校生のときに、同級生の英語の勉強を手伝い喜ばれたことで人に喜ばれることの嬉しさに目覚められた先生は、次第に新しい手術を開発して手術不能の壁へと挑むことにその興味が移り変わっていきます。米国で成功し、慈恵医大に戻ってきた頃には、母校と外科学会の発展に貢献すること。そして日本の医療に貢献し、後進を育てること、新しい医療機器開発で日本に貢献することへと夢が広がっていったそうです。

先生の足跡をその語りから伺う中で、学生は皆自分の追い求めるものが何なのか、どんなことに自分は熱意を傾けられるのかを考える良い機会になりました。是非慈恵医大で、大木先生をはじめとした世界でも尊敬を受ける先生方のお話を聞いて頂ければ幸いです。

(医学科5年 成田凌)